幼少期の思い出


私、岩丸潔は父 岩丸行男(ゆきお)、母 絹子(キヌコ)の長男として生まれた。母の絹子が19歳のときの子どもだった。弟が2人いて神山の田舎町を一緒に遊びまわっていた。

 

当時の神山には子どもが沢山いて、友人たちと共に野山や川に遊びに行った。岩丸百貨店の前の通りには多くの子どもたちが集い、大変にぎやかだった。神領小学校に通い、野球少年として近くの広場で三角ベースの野球を楽しんだ。長嶋茂雄、力道山、若乃花などスターの活躍のニュースに心躍らせ、テレビのある家に訪問しては(当時は家に一台テレビがある時代ではなかった)大相撲、プロ野球、レスリングなどを食い入るように見ていたものだ。

鮎喰川の自然の美しさは今と変わらず、夏になれば川遊びをしていた。釣りをしたり「じゃこ」と呼ばれる魚をつかまえて持って帰って食べていた。うなぎなどをとることにも挑戦していた。そのころ父は先代からの商店を継ぎ、オートバイに乗って各家庭を周り日用品を幅広く取り揃え、売り歩いていた。当時から百貨店として町の人に必要とされるものを何でも取り揃えていたと記憶している。

 

神領中学校に進学したのち野球部に入部し、キャッチャーとして活躍していた。「将来はプロ野球選手になるぞ!」と意気込んでいたものだ。当時神山に中学校は7校あり、学校別対抗の町大会の試合などが行われていた。神山町全体が農林業で栄えていたころだ。

私は高校への進学を選択したが、中学を卒業する際数々の同級生が「就職組」として都会に出ていった。

 

野球に明け暮れる学生時代


高校は徳島市内に下宿しながら城北高校の普通科に入学した。当時も今と変わらず、高校から神山を出て下宿しながら勉学に励む人が大半であった。部活は高校時代もずっと軟式野球に明け暮れ、楽しい毎日を過ごしていた。

 

大学は高知大学文理学部経済学科に進学し、社会や経済について学んだ。大学に入っても継続して野球に没頭すると共に、マンドリン倶楽部に入り、演奏会などでマンドリンを披露していた。

大学時代はまさに青春を謳歌したように思う。人生の中でも一番自由でいい時代だった。

 

最初の呉服屋での仕事


大学卒業後は商売を勉強するため、京都の呉服屋に就職し、住み込みで働き始めた。商売の基本として接客や着物の勉強に明け暮れたものだ。お茶くみから配達まで丁稚として目の前の仕事に全力で取り組んでいた。京都の呉服屋は訪問販売を専門としていたので、三年目になると僅かな情報をもとに外回りで着物を販売するという新しい体験をすることになった。慣れない飛び込み営業であったが、少しずつ新しいお得意さんがついた。この経験を通じて人に対して前向きに接することができるようになり、度胸がついたように思う。

 

26歳のころ神山に戻ってきて、父と共に岩丸百貨店の事業を行うこととなった。昔は嫁入りをする際に着物などを仕立てる習慣があったので、京都で得た呉服屋の経験を活かして忙しく働き、繁盛していた。当時は既製品がない時代だったので、着物を仕立てる際には反物を販売して、仕立て屋さんに仕立ててもらうといった仕事の流れであった。

 

その後27歳で初代(はつよ)と結婚した。初代が22歳のときである。

ありがたいことに長女と長男が誕生し、仕事と子育て、PTAなどの活動にも精力的に取り組んだ。家族との時間は幸せそのもので、第二の青春を感じていた。

しかしながら、妻の初代は娘が18歳のときに病気で急逝した。死別の悲しみが大きすぎて言葉にならないほどであった。この悲しみは私の心に留めておこうと思う。

 

二度目の結婚


初代が亡くなった後、独身であったが4年後に奈良県出身の多津子(たづこ)と再婚した。神山に移住している女性達に近いタイプの丸紅に勤めていたキャリアウーマンであった。都会の真ん中から神山に移住して生活するのは大変だったと思う。

 

多津子は人形浄瑠璃の寄井座という団体に所属し、人形劇を披露していた。ここで演じる楽しさを覚え、自分の居場所ができて積極的に活動していたように思う。

 

8年一緒にいたが、多津子も病気でこの世を去ることとなり、またも深い悲しみに暮れることとなった。